2022プティマンサン瓶内2次発酵スパークリング物語-その1


この度完全瓶内2次発酵スパークリングワイン「栗原の白布」を7月上旬にリリースすることになりました。ことの発端はワイン会に参加している方が、「栗原は古くから人々の営みが盛んで「栗原の白布」という布が収められていた土地ですよ」と教えられたことから、同じ栗原にブドウを植えながら、「栗原醸造所」という地名を入れたワイナリーを開設しているという地名の共通性を何らかの「縁」として感じ、新しいスパークリングワインの名前に適しているのではと考えたことからスタートしています。そこで、この名の由来や時代背景などを富山桂一さんに4回に分けて執筆していただけることになりました。歴史ある「栗原」のタイトルを今後も使用していきたいと考え、このような「栗原」にまつわる歴史を調べることができ嬉しさを感じています。なお、この内容はすでにメイルマガジン3号に掲載されています。

   一章        なに?    “栗原の白布”?
    『栗原の白布(ハクフ)』というワイン名から、どんな連想をされるでしょうか?真っ白なテーブルクロス上の゙スパークリングワインでしょうか?あるいは人名?地名でしょうか?実はこの名は、今からおよそ1300年前、万葉の頃、ここ筑波栗原の地から東大寺正倉院に税として納められた、一反の麻の晒し布からいただきました。
    律令政治の成熟期にあたる当時の税制は“租、庸、調”と言われ、現代のように金納ではなく、物納が主でした。この内の“調”は繊維製品であり、主に絹布と麻布に分けられていました。絹布は最高級品として高貴な身分の人々の服飾等に用いられ、麻布は朝廷生活の日用品として幅広く用いられていたとのことです。
    “調”として納められた“栗原の白布”は、巾約70cm、長さ12mとの記録が残っています。正倉院宝物として現存する長さは1.25mとのことです。きっと宮中の普段の暮らしの場面で、様々な用途に使われたことでしょう。

二章        なぜ?    白布とワインの縁
    なぜ、“栗原の白布(ハクフ)”が心に留まったのでしょうか?
    ワインづくりもその風土の中で行われます。
    {人々が集い、風を読み、土を整え、葡萄の苗を植え、木を育て、実を摘み、果汁を醸す。}
    そうしてできたものを皆で分かち合う。この普段の暮らしの小さな循環の中で、智恵を出し合ったり、美味しさを味わい合ったりするうちに、何か不思議と、特別感とでもいうか、小さな誇りのような気持ちが湧いてくるのです。
    「えっ!?つくばでワインできるの?」このような声をしばしば耳にします。今はまだワインづくりは筑波栗原の地にとって、新しい風と思われているようです。将来、この風がここ栗原の土により広く深く根付き、この地を訪れる全ての人たちと、先のような気持ちを共有できたら、それは素敵なことではないでしょうか?
    “栗原の白布”が正倉院に現存していることを知った時、「当時の栗原の人たちは白布づくりを根付かせ、1300年も先に、素敵なことを実現していたのでは?」という思いが胸をよぎりました。
    白布づくりも、その風土なしには成り立たないようです。
    {人々が集い、風を読み、土を整え、麻を植え、育て、刈り、干し、糸を紡ぎ、布を織り、陽に晒す。}
    そうしてできた生地は、日常の中で様々に使われたことでしょう。絹のような高級品ではなく、日用品をつくる普段の暮らしの小さな循環の中で、当時の人たちも、何か特別感のような気持ちが湧いていたのではないでしょうか。
    白布づくりも、栗原の地で独自に起こったものではないようです。一説によると、麻も、中国から伝わった植物で、布づくりは、すでに弥生期の頃から各地で行われていたと言われています。但し、その質と量とが格段に向上するのは、7世紀、大化の改新を合図に始まった律令政治が、東国に浸透してからのようです。
    大和朝廷は、遣唐使を送り込み、政治、宗教、技術といった先進文明を、セットで吸収しようと積極的に動いていました。栗原の地の近場には、郡役所や寺院といった、朝廷の東国経営の重要拠点があったとのことです。中国から吸収した先進農工技術を、東国開発のために着任した国司団が、この地の人たちに伝えたことにより、白布づくりに進化があったのではないでしょうか。
    それが伝わった当初には、「えっ!?白布って筑波でできるの?」という声が聞かれたかもしれません。しかし、それに携わる人たちの、普段の暮らしの中の特別感のような気持ちが、ひとつまたひとつと織り重なって根付いた結果、1300年もの時を超えて、心に留まるものが残されたのではないでしょうか?
    白布とワイン、ものは違っても、同じ地で、それを産み出す普段の暮らしの中で、そんな素敵なことを実現していたであろう万葉の栗原の人たちに、深い共感と羨望を憶えるのです。

投稿者: 高橋 学

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