2022プティマンサン瓶内2次発酵スパークリング物語-その2-


完全瓶内 2 次発酵スパークリングワイン「栗原の白布」、この名の由来や時代背景などを富山桂一さんに 3 回に分けて執筆していただきます。

歴史ある「栗原」のタイトルを今後も使用していきたいと考え、このような「栗原」にまつわる歴史を調べることができる嬉しさを感じています。

2019,2020プティマンサン

三章 万葉栗原の地と人を思う

この栗原の人たちの暮らしぶりはどうだったのでしょうか。

今はもう、歴史の文献や遺跡の出土品などから想像するしかないのですが、万葉期より遙か昔の縄文期から、豊かで人を呼ぶ地であったようです。

私たちの畑から半径 2km くらいの範囲に、発見されているだけで 10 ヶ所以上の遺跡、古墳があります。

数多くの土器や動物の骨、遺品などが出土していますが、一つの遺跡から、縄文期、弥生期、もっと下って万葉期の頃も作られる須恵器まで、一緒に出土した例が多いとのことです。

縄文期は、筑波山の麓まで河川に沿って入りくんだ地形に海水が入り込み、山の幸海の幸ともに豊かな、採集生活にはもってこいの地であったようです。

それから時を経て、河川が山地を浸食して沖積層が作られ、低湿の地がだんだんと増え、そこに西方から稲作を業とする人々がやって来て、弥生期には農耕生活を主とする集落が数多くできていました。

このような稲作の適地に、時の政治勢力も目を向けないわけにはいかなかったようです。

大和朝廷の有力豪族の進出は 4 世紀頃から始まり、7 世紀から 8 世紀の万葉期の頃には、かなり整った律令政治よる経済大国としての運営がなされていました。

栗原から少し目を広げて、筑波山地域−今の石岡市、つくば市周辺−を見渡すと、常陸国の行政機関である国衙(コクガ)や郡衙が建ち、当時としては大規模な製鉄所群が造営されており、朝廷の東国経営と東北進出のための、中枢機能としての役割を担った地域だったようです。

遙か数千年以上の昔から、永々と絶えることなく、人々の暮らしが続く地であると言えるのではないでしょうか。

万葉集にも、当時の暮らしぶりを想像させる歌があります。

万葉集は 7 世紀後半から 8世紀後半にかけて編まれ、作者は天皇から庶民まで、詠まれた土地は東北から九州まで、約4500 首からなる日本最古の歌集です。筑波山を詠んだ歌は 25 首と、山を詠んだ歌では最も多く収められているとのことです。

万葉集の中で、紹介したい歌はこの一首です。

万葉集 巻第四 五二一 相聞(ソウモン)
〈原文〉
藤原宇合大夫遷任上京常陸娘子贈歌一首
庭立 麻乎刈干 布暴 東女乎 忘賜名

〈かな読み〉
ふじわらのうまかいたいふ、にんうつりてきょうにのぼるとき、ひたちをとめのおくれるうたいっしゅ
にわにたつ あさをかりほし に・のさらす あずまをみなを わすれたまわな

この歌は“栗原の白布”が貢納される 40 年程前、722 年頃に詠まれた歌とのことです。

まだ平仮名も片仮名も無い時代だったので、原文は万葉仮名で書かれています。

“相聞”は、平たく言うと、男女間の恋文のやりとりを言うようですが、男性である“藤原宇合(ウマカイ)”からの歌は万葉集に収められておりません。

いったい宇合から贈った歌は、どんな歌だったのでしょうか?

藤原宇合は、歴史に名を残した有名人物です。

大化の改新で功績のあった中臣鎌足の孫であり、この歌の頃は、年齢 28 歳、“大夫”とある通り、常陸国守として都から赴任していたようです。

遣唐使の経験もあり、漢詩が得意だったとのことで、日本最古の漢詩集“懐風藻”に作品が収められています。

後の経歴から見ると 、都の造営や、東北から九州までの各地の軍備の責任者に任ぜられるなど、貴族というより、在野の武人としての活躍が印象に残ります。

外国通で語学に堪能、先進技術にも明るいエリート、しかも血筋的にサラブレッドと言ったところでしょうか。

一方、“常陸娘子(ヲトメ)“は無名の人物です。“娘子”とあるので、未婚女性ということは分かります。

無名のため、遊女、巫女、国府周辺の土豪の娘で府中に侍女として上がっていた者など、様々な説が流布されています。

歌から読み解くと、白布づくりの技術を身に付けた者であること、また、当時未だ一般的には歌を詠める女性が少なかった中で、万葉集に取り上げられるほどの歌を詠んでいたこと、歌の表現で、“布”を“に・の”と東国方言で詠んだり−筆者の記憶ですが、ウの口形でニと鼻音で発音すると近い音になります。

−、自分のことを京女に対しての“東女(アズマヲミナ)”と卑下する呼び方をしたりと、裏返しの自負を鮮やかに表現するなど、高い文学的教養を身に付けていた女性であることが覗えると思います。

知的だけれども陽の光が好きで行動的な女性といった印象を受けますが、どうでしょうか?この歌は、身分の高い憧れの男性との別れに際しての、身分の低い女性の悲哀の気持ちを読んだ歌という解釈が多いのですが、どうもそればかりではない気がします。

勝手な解釈かもしれませんが、藤原宇合と常陸娘子、二人の印象を重ね合わせると、この別れの情景に
は、悲しさはあるものの、湿っぽさというより、何か爽やかさを感じてしまいます。

知的で実務家肌、野外好きで行動派といった共通点を持つ二人は、身分の違いという垣根を越えて、ウマ・・が合ったのではないでしょうか。

二人はどんな普段の暮らしを送っていたのでしょうか。

歌からの想像ですが、日々の政務に、農作業に、小さな誇りを感じたり、仕事の出来栄えに一喜一憂したりしている光景が目に浮かびます。どんな物を食べていたのでしょうか。

常陸風土記という有名な文献に“握飯(ニギリイイ)”という言葉が出てくるとのことです。

赤米や黄金色の黍、粟などから作られた色とりどりのおにぎりを持って、山遊びに出かけたりしていたのかもしれません。

Mail Magazine 第 4 号 2024 年 4 月 5 日

投稿者: 高橋 学

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